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〝地球環境の急速な悪化〟と〝情報技術の急速な発展〟とが希求する未来社会

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2-1-9〝地球環境の急速な悪化〟と〝情報技術の急速な発展〟とが希求する未来社会
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〝地球環境の急速な悪化〟と〝情報技術の急速な発展〟とが希求する未来社会

このページは、〝地球環境の急速な悪化〟と〝情報技術の急速な発展〟とが人類にどのような未来社会を求めているのか、みなさんと一緒に考えるために作りました。

 

科学的社会主義が示す〝未来社会〟への展望

マルクス・エンゲルスは『資本論』の第三巻:第三部(資本主義的生産の総過程)で、①「〝未来社会〟への道」としての新しい生産様式のありようと、その結果実現されるであろう②「〝未来社会〟の展望」について述べています。

マルクスとエンゲルスの〝未来社会〟論は、この二つで構成されていますが、その共通の主役は、もちろん、未来社会を担う結合された(assoziierter)生産者、結合された生産者たち(assoziierten Produzenten)です。

〝地球環境の急速な悪化〟と〝情報技術の急速な発展〟とが希求する未来社会とは、どのような社会なのか。

 私たちがここで論究するのは①「〝未来社会〟への道」としての新しい生産様式と〝地球環境の急速な悪化〟及び〝情報技術の急速な発展〟との関係についてです。

 ですから、②のマルクスが展望する〝未来社会〟──〝未来社会〟の発展過程──についての記述の中では、地球環境は物質代謝の場として、情報技術は物質代謝を合理的に規制する手段として、新しい生産様式の社会を作り構成する要素として述べられています。そして、良好な地球環境と発達した情報技術は新しい生産様式の社会の中でこそ、開花させることができるとマルクスとエンゲルス──科学的社会主義──はいいます

 

マルクスとエンゲルスのいう〝未来社会〟への道

マルクスは、『資本論』第三部(資本主義的生産の総過程)第27章(資本主義的生産における信用の役割)(*1)で、資本主義的生産様式の次に来る社会とは、「資本が結合された(assoziierter)生産者の直接的社会所有としての所有に転化した社会」であり、「資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者(assoziierte Produzenten)たちの単なる機能に、社会的機能に、転化する」ことによって「資本」そのものが意味をなさない社会、資本のいっさいの機能が社会的機能に転化した、つまり、資本のない社会になることを明らかにしています。

そしてマルクスとエンゲルスは、『資本論』第三部(資本主義的生産の総過程)第36章(資本主義以前)(*2)では、資本主義的生産様式の次にくる社会とは「結合労働の生産様式」の社会だということを述べ、「結合労働の生産様式」の社会では「生産手段が資本に転化」しなくなり、資本が単なる生産手段に転化することにより、「結合労働の生産様式」の社会では「資本」の支配がなくなり、資本主義的生産様式が生み出す「資本」の諸形態の一つである「利子生み資本」も存在しなくなるということも言っています。

まり、マルクスは、資本主義的生産様式の次に来る社会とは、「資本」の持つ〝資本〟としての機能が廃止され、「生産手段が資本に転化」しなくなることによって、「資本」による「企業」の支配がなくなり、生産手段が結合された生産者たちが使う〝財〟としての社会的機能に単純化され、〝資本〟が労働者階級を搾取し、その搾取した「財」を「資本」として生産過程に投入することによって生産を拡大させて社会を豊かにするという資本主義的生産様式の社会の仕組みが廃止され、私的「企業」はその私的性格を失い、各企業はその企業運営に主導的な役割を担う労働者階級を中心とする全人民の結合した力によって公的な性格を与えられ、社会は、この全人民の結合した力という〝人間の意思〟によて在るべき方向に向かって制御され、動かされるようになる社会だといいます。

(*1)『資本論』第三部(資本主義的生産の総過程)第27章(資本主義的生産における信用の役割)

「株式会社では、機能は資本所有から分離されており、したがってまた、労働も生産手段と剰余労働との所有者からまったく分離されている。このような資本主義的生産の最高の発展の結果こそは、資本が生産者たちの所有に、といってももはや個々別々の生産者たちの所有としてではなく、結合された(assoziierter)生産者である彼らの所有としての、直接的社会所有としての所有に、再転化するための必然的な通過点なのである。それは、他面では、これまではまだ資本所有と結びついている再生産過程上のいっさいの機能が結合生産者(assoziierte Produzenten)たちの単なる機能に、社会的機能に、転化するための通過点なのである。」(マルクス経済学レキシコン⑤P17、『資本論』大月版④P557)

(*2)『資本論』第三部(資本主義的生産の総過程)第36章(資本主義以前)

「最後に、資本主義的生産様式から結合労働の生産様式への移行にさいして信用制度が強力な槓杆として役だつであろうことは、少しも疑う余地はない。とはいえ、それは、ただ、生産様式そのものの他の大きな有機的な諸変革との関連のなかで一つの要素として役だつだけである。これに反して、社会主義的な意味での信用・銀行制度の奇跡的な力についてのもろもろの幻想は、資本主義的生産様式とその諸形態の一つとしての信用制度とについての完全な無知から生まれるにである。生産手段が資本に転化しなくなれば(このことのうちには私的土地所有の廃止も含まれている)、信用そのものにはもはやなんの意味もないのであって、これはサン・シモン主義者たちでさえも見抜いていたことである。他方、資本主義的生産様式が存続するかぎり、利子生み資本はその諸形態の一つとして存続するのであって、実際にこの生産様式も信用制度の基礎をなしているのである。」(『資本論』大月版⑤P783-784)

 

〝地球環境の急速な悪化〟を止められない資本主義的生産様式の社会

前の「項」の「マルクスとエンゲルスのいう〝未来社会〟への道」で見てきたことを、マルクスは〝未来社会〟の展望を語る中で「素材変換」(物質代謝)の観点から、「社会化された人間、結合された生産者たちが、自然との彼らの素材変換によって、盲目的な力によるように支配されるかわりに、この素材変換を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ」(*)という表現で述べています。

結合された生産者達の社会、結合労働の生産様式の社会は、「資本」どおしの競争の結果ではなく、結合した人民の意思、〝人間の知恵〟によて在るべき方向に向かって社会を制御することのできる社会ですから、地球の物質代謝を「合理的に規制し」〝地球環境〟を「自分たちの共同的統制のもとに置くということ」が可能な社会なのです。

むろん、資本主義的生産様式の社会でも、国家の規制と科学技術の進歩によって個々の企業のバリューチェーン単位での地球環境の負荷の軽減は可能です。しかし、私的「企業」が利潤を求めて個々バラに無政府的に「競争」し利潤を拡大することが社会を維持する「盲目的な力」として社会を「支配」しており、これらが社会存立の原理となっている資本主義的生産様式の社会では、地球から得られた資源を社会全体の中でどのように最適に分配するのかとか、地球全体の資源と環境をどのようにコントロールするのかとかいうことは、社会システムのなかに想定されておらず、二の次になってしまいます。「掘って掘って掘りまくれ(Drill, baby, drill)」と自由を主張することで、EVシフトは頓挫し、EVに変わるあらたな儲けのために自動車メーカーは大赤字の計上を余儀なくされます。これが、儲けることで成り立っている資本主義です。

人類は自らの想像力を超える速さと規模で科学技術を進歩させると共に自らの想像力を超える速さと規模で「地球環境の急速な悪化」をもたらしています。拡大し続けることを義務づけられた私的個別企業の「利潤第一主義」がもたらした「地球環境の急速な悪化」は、自然の治癒力では回復不能なところまできてしまいました。各企業が社会的な責任を自覚した社会的な存在としての企業として互いに連帯し結合して、環境と資源の全体をコントロールし、消費のために得た資源の最適な分配のために一体となって協力することのできる社会システムをつくることなしに、「地球環境の急速な悪化」を根本的に食い止めることはできません。美しい「地球環境の急速な悪化」はその改善の道を明示することによって「古い社会の変革の契機」となり、人と自然に優しい美しい〝地球環境〟づくりのために「生産」が「資本」の軛から解放されて真の〝社会的生産〟が実現したとき、〝企業〟は未来を担う「新たな社会の形成要素」となることができます。

そのことを明らかにするのが、科学的社会主義の党の歴史的使命であり、それを実現させるのが労働者階級の歴史的使命です。

(*)『資本論』第三部(資本主義的生産の総過程)第48章(三位一体的定式)

「……しかしまた、一定の時間に、したがってまた一定の剰余労働時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によって定まる。だから、社会の現実の富も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、剰余労働の長さにかかっているのではなく、その生産性にかかっており、それが行なわれるための生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっているのである。じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。とういのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たち(assoziierten Produzenten)が、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行うということである。」(*)しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である。」(マルクス経済学レキシコン⑤P207『資本論』第3巻 大月版 ⑤ P1050~1051)

(*)マルク経済学レキシコン⑤(P207)では、上記の「」で囲った部分は下記のような表現になっています。

「すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、自然との彼らの素材変換によって、盲目的な力によるように支配されるかわりに、この素材変換を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで、この素材変換を行うということである。」

 

〝情報技術の急速な発展〟を生かせない資本主義的生産様式の社会

「情報技術の急速な発展」は、遂に、一国の経済全体を時間差無しに完全に把握することができ、したがって、一国の経済全体を最も効果的かつ効率的に発展させることのできる技術の水準へと急速に接近しています。

「情報技術の急速な発展」は、資本主義的生産様式の基でも、個別企業にとって「有益なツール」として十分機能を果たすことが可能であり、また、個々のバリューチェーンの最適化にも寄与することが可能です。しかし、「情報技術の急速な発展」が一国の経済全体を最も効果的かつ効率的に発展させることのできる技術水準を社会が獲得することが可能となっても、その技術は、自由(勝手気まま)に増殖し転移する癌細胞のように活動する個々の私「企業」の集合体である資本主義的生産様式の社会のもとでは、個々のバリューチェーンの最適化のために寄与することはできても、資本主義的生産様式が持つ個別私「企業」による「資本」拡大を至上命題とする無政府的な〝私的資本主義的な富の取得形態〟が〝社会的生産〟を妨げ、私「企業」が〝壁〟となり、障害となって、社会全体のスムーズでダイナミックで機動的な経済運営の実現を妨げざるを得ません。

資本主義的生産様式そのものが〝技術的な進展がもたらす社会の発展〟を制限するものとなり、社会の発展の対立物となります。〝情報技術の急速な発展〟は、〝社会化された人間、結合された生産者たち〟によって生産全体を〝合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置く〟ことを求めています。〝情報技術の急速な発展〟は、技術的に極めて重要な、未来を担う「新たな社会の形成要素」なのです。

そのことを明らかにするのが、科学的社会主義の党の歴史的使命であり、それを実現させるのが労働者階級の歴史的使命なのです。

おまけ

 

マルクスの〝未来社会〟の展望についての、とんでもない謬論

ほど、〈〝地球環境の急速な悪化〟を止められない資本主義的生産様式の社会〉の「項」の(*)『資本論』第三部(資本主義的生産の総過程)第48章(三位一体的定式)で見たマルクスの〝未来社会〟の展望に関してとんでもない謬論が「共産党」内で流布されているので、騙されないために、騙されて信じ込んでしまった人は目を覚まして頂くために、この「おまけ」を付けることといたしました。

(*)で示した文章をわかりやすく──より理解しやすくするために──二つの異なる文章に要約いたしましたので紹介します。

要約文その1

一定の時間に、どれだけの使用価値が生産されるかは、労働の生産性によってきまる。だから、社会の富の増加も、社会の再生産過程の不断の拡張の可能性も、その生産性を保障する生産条件が豊富であるか貧弱であるかにかかっている。

ここで言う、「自由の国」は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まる。

未開人も文明人も、どんな社会形態のなかでもどんな生産様式のもとでも、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならない。

この自然「必然性の国」での「自由」とは、資本主義社会から「社会主義社会」になることによって、社会化された人間、結合された生産者たちが、資本の盲目的な力によって支配されるのをやめ、自分たちと自然との物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くことができるようになることである。

しかし、資本主義社会から「社会主義社会」になること、これはやはりまだ「必然性の国」である。

この「必然性の国」である「社会主義社会」をその基礎として、この「必然性の国」の先に、自己目的として認められる人間の力の発展が万人に保障される、真の「自由の国」が始まることができるのである。

「社会主義社会」が資本主義的生産様式の持つ生産性向上の壁を打ち破って、「自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとで」生産性を保障する生産条件を豊富にすることによって、労働の生産性の飛躍的向上をはかり、労働日を短縮することこそが「自由の国」実現のための根本条件である。

要約文その2

物(富)がどれだけ生産されるかは生産性の高さにかかっており、生産設備等の進歩にかかっている。「自由の国」は強制されてはたらく必要がなくなったときに、はじめて始まる。つまり、それは、当然のこととして、遠い将来のことである。未開人も文明人も自然と格闘しなければならない。この「自然必然の国」は社会の発展につれて拡大する。この「自然必然の国」での「自由」とは、盲目的な力に支配されていた生産が計画的、意識的におこなわれるようになり、共同的統制のもとに置かれることである。しかし、この「自由」を獲得した「社会主義社会」もまだ「必然性の国」である。この国のかなたで、強制的な労働のない、自分の人間的な能力の発展のみを追求する真の「自由の国」が始まる。しかし、それは、「社会主義社会」という「必然の国」を基礎として、その上にのみ花開くことができる。そのための根本条件は労働日の短縮、つまり、生産性の向上である。

これが、マルクスが述べ、エンゲルスが第三部第48章の一部として編集いたし文章の要約です。

とんでもない謬論で「共産党」を汚染させ、「共産党」を科学的社会主義の党から変質させてしまった人物は、「共産主義社会・社会主義社会」になっても労働は義務的なものだから、マルクスのいう「自由の国」とは「自由な時間」のことで、資本主義社会での余暇も「自由の国」だという、とんでもないことを『赤旗』で堂々と言い(*)ます。

(*)この人は、『赤旗』に「『資本論』刊行150年に寄せて」という文章を掲載し、その⑩「マルクスの未来社会論(2)」で、「必然性の国」以外の余暇時間をマルクスは「自由の国」と呼び、資本主義社会にも〝余暇〟があり「自由の国」があると述べています。 なお、この謬論に関する詳しい説明は、ホームページAZ-2-2「『資本論』刊行150年にかこつけてマルクスを否定するX氏」を、是非、参照して下さい。

 

なぜ、このようなとんでもない謬論に陥ったのか

それは、この人が、「未来社会」を「社会主義・共産主義」とひとくくりにする誤り(*)と結びついて、「未来の社会」においても「指揮者はいるが支配者はいない」という社会のまま変わらず、働くことが「楽しい人間的な活動に性格が変わったとしても、この活動は、社会の維持・発展のためになくてはならないもの、そういう意味で、社会の構成員にとって義務的な活動」と考え、働くことを「楽しい人間的な活動」程度にしか理解出来ず「義務的な活動」としか見ることができなかったからです。

マルクスもエンゲルスも〝共産主義社会〟を、「生まれたばかりの共産主義社会」、「共産主義社会の第一段階の社会」と「発展した共産主義社会」、「共産主義社会のより高度の段階の社会」というように区分し、前者を「民主主義」や「平等な権利」が残り、「労働が義務」で「死滅しつつある国家」のある「必然性の国」とみて、後者を「民主主義」や「平等な権利」という概念そのものが不要な、「労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、労働が生活にとってまっさきに必要なこと」となる「国家」のない「自由の国」と見ていました。

そして、マルクス・エンゲルス・レーニンが、そして私たち科学的社会主義の思想をもつものがイメージする〝未来社会〟の〝自由の国〟とは、〝共産主義社会の高い段階〟のことで、〝自由な時間〟があるだけでなく、その「基礎」としての新しい共同社会があり、新しい共同社会で生まれ、新しい共同社会を支え発展させる新しい人がいて、〝自由な時間〟の一部となった質的に変化した〝労働時間〟を使って労働する〝労働〟そのものが〝生きがい〟となる、「諸個人が分業に奴隷的に従属する」システムから解放され、〝諸個人の全面的な発展〟が完全に保障された社会のことです。

このように、「自由の国」とは「自己目的として認められる人間の力の発展が」保障される国(『資本論』)、「ただ物質的に十分にみち足りており、日に日にますます豊かになっていくだけでなく、肉体的、精神的素質の完全で自由な育成と活動を保障するような生活を、社会的生産によってすべての社会の成員にたいして確保」された国(『空想から科学へ』P71)のことです。

(*)この人は、レーニン憎さも手伝って、「未来社会」を「社会主義・共産主義」とひとくくりにする誤りを深めてしまいます。詳しい説明は、ホームページAZ-3-5「エセ「マルクス主義」者の『資本論』解説(その5)」PDFページ42~51を、是非、お読み下さい。必ずや、みなさんの知識の小さな肥やしにはなると思います。

 

共産党よ元気をとりもどせ/蘇れ!Communist Party。

この人は、これらのことが理解でないまでに転落してしまったので、マルクスの目指した未来社会の「自由の国」とは資本主義社会にもある「余暇」のことだなどと言って、資本家階級を泣いて喜ばせ、同時に、現在の「共産党」の幹部にはグローバル経済の基での資本主義的生産様式の矛盾の現れである「産業の空洞化」から目をそらさせ、天国を語る牧師のように、自由時間の大切さを語らせているのです。

そして、この人とは、2025年12月30日に逝去された不破哲三氏のことです。私は、決して死者に鞭打つつもりなどありませんが、2004年1月17日第23回党大会で採択された「日本共産党綱領」は、「企業」での労働の質のあり方の考察と労働者階級の社会的役割の意義の認識に欠ける不破さんの労働者階級の歴史的使命を抜きさった──「綱領」には「労働者階級」という言葉だけは6回ほど出てくるが、労働者階級の歴史的使命に関して一言も触れられていない革命の主体のいない──観念的な「生産手段の社会化」によって、──「生まれたばかりの共産主義社会」と「共産主義社会のより高度の段階の社会」の区別も無く──「社会主義・共産主義の社会」が実現されるかのような、唯物史観を無視した、代物であることだけは申し上げなければなりません。

現在の「共産党」が科学的社会主義の党に蘇るためには、労働者階級こそが生産点で民主を徹底させて社会的生産を担い、労働者階級こそが政治の場で民主を徹底させて全人民による政治を実現させるという、労働者階級が労働者階級の歴史的使命を遂行するための助産師(*)としての自覚を、しっかり、持つことです。

共産党よ元気をとりもどせ。蘇れ!Communist Party。

(*)助産師としてのたたかいかたに関しては、ホームページ3-2-8「2026年衆院選の結果が示したこと」の「人民革命の助産師としての自覚とはなにか」の「項」、ホームページ3-3-1「〝前衛党〟は市民革命の助産師に徹しよう…科学的社会主義の党が輝くとき」及びホームページ3-2-6「科学的社会主義の思想を欠落させた「共産党」六中総決議」の「科学的社会主義の目指す社会とその作り方」の「項」を、是非、参照して下さい。